2008年 03月 28日
函館大火展
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被災から75年、当時の様子を伝える写真や資料が市立中央図書館で展示されていた。
ものもあったみたい.......
明治40年や大正10年の大火の際の写真も飾られていて、火災のものすごさを如実に
伝えていた。
明治期の焼跡の写真を見ると、すでにあの頃に西部地区の石垣群は作られていたのがよく
分った。
幾多の火災や地震などにもあの石垣は耐えてきたんだなぁ。
昭和9年の大火の写真では焼け残った旧丸井デパートが見え、すでにこの時には5階建てになっていたのがよくわかる。
僕の父はこの時の大火で被災し、家族で避難したそうだ。
出火当時は住吉町から蓬莱町(当時はこの町名だった)を経て大町方面へ火が広がって
いたそうで、父の家族は東川町から大森町方面へ逃げた。
ところが途中から風向きが変わり、避難した方向に火が追い掛けるように燃え広がり、
多くの人が火を背中に逃げる形になった。
風の勢いは尋常ではなかったそうで、避難する人たちの頭を越えて火の粉が飛び、逃げる
先でも火災が起きたそうで、多くの人の背中に火が付いたりしたらしい。
亀田川に掛かる橋は木造ばかりで、飛び火した火災と人々の重さで橋が落ち、橋上の
人たちが次々と川に落ちた。
逃げる人たちは橋の落ちたのが分からず、後ろから押されて次々と川に落ちたそうな....
川の水は少なかったものの、ぬかるむ川底から抜ける事が出来ず、また次々落ちてくる
人たちが折り重なって、結局火災による死者より溺死する死者の方が上回った。
橋の落ちる前に日の出町方面へ逃げる事のできた父の家族らは、その当時から金堀町に
あった函館刑務所を背にして火の粉を避けていたそうだが、同時の看守が避難してきた
人たちを所内に入れて休ませてくれたそうだ。
着の身着のまま逃げてきた人たちはそこで水や食べ物を分けてもらい、火の勢いの収まる
のをじっと待っていた。
父の学校の友達や近所の人たちで亡くなった人が沢山いて、自分達が全員無事だったのが
奇跡のようだと話してくれた。
大火後、火の粉が飛んで類焼するのを防ぐため市内の数カ所にグリーンベルトが設置され、
その後大きな火災は起きていない。
この時の多くの犠牲が今の函館の街作りに生かされているのだ。
by eastend0002
| 2008-03-28 23:30
| 個人ネタ